彼は宣撫班を指揮し情報収集のため避難民収容所を精力的に回ります。その調査の過程で丸本中尉は信じ難いことに遭遇します。彼が各収容所で面接した沖縄 人のほぼ全員が“最も人望のある人は志喜屋氏である”と口をそろえたのです。米軍の人物調査では早い時期から志喜屋先生が最上位にランクされていました。

*志喜屋健在の報に驚喜す*

カーストン少佐の依頼を受け、比嘉善雄氏の志喜屋先生探索が始まります。
志 喜屋先生の無事を祈りつつ懸命に先生の捜索を続ける比嘉氏の前に旧知の新里清篤氏(前出、奉護隊員、二中11期)が志喜屋先生の情報を持って現れたので す。「ご真影奉護隊」解散後の7月はじめ米軍に投降した新里氏は問われるままに、志喜屋先生が奉護隊解散後、久志村嘉陽の當銘由金氏宅に逗留していること を伝えたのです。
「志喜屋先生健在」の報に驚喜した比嘉善雄メイヤーは比嘉秀平氏(二中教諭、三中教頭、二中5期)(注)と新里清篤氏(二中11期)の3人で早速、嘉陽の當銘氏宅に志喜屋先生を迎えにいく準備に取り掛かりました。

(注)  「比嘉秀平氏が古我地に来たのは7月5日、沖縄県立第三中学校の教頭だった同氏は4月中旬真部山で学徒隊を解散した後、生徒数人と伊豆味、羽地、久志の 山々を転転とし久志で家族と再会したときは栄養失調で歩行も困難だったという。6月に秀平夫人が古我地に降りて、かつての夫の同僚の比嘉善雄メイヤー(三 中の英語教諭)に救助を仰ぎ、比嘉メイヤーが通行証を書いて秀平氏を迎えメイヤーの顧問にして、2人で志喜屋氏の行方を捜すようになった」(「沖縄の証 言」)のです。
久志村嘉陽の當銘氏宅まで志喜屋先生を迎えに行くにはヤンバル山中を横断しなければなりません。比嘉メイヤーは重大な問題があることに気付きます。米軍から近日中に山中の日本軍敗残兵の掃討作戦を大々的に展開する予定である事を知らされていたのです。

掃討作戦が開始されては志喜屋先生の救出は非常に困難になる。比嘉善雄氏はカーストン少佐をたずね「ミスター志喜屋の居所が分かった。3人で必ず連れて帰るから、それまで久志方面の掃討作戦を中止して欲しい」と申し入れました。
カーストン少佐は「よろしい。戦闘部隊に連絡して砲撃を中止させよう。ところで救出には何日かかるのか」と。「3日は見てもらいたい」と返事し出発の準備に取り掛かったのが7月4日か5日のことです。
丁 度そのころ、隣村の仲尾では助役の山里景春氏(前出、二中15期)がいつものように米軍トラックに満載されて到着した避難民の受入れに忙殺されていまし た。栄養不良のため足元もおぼつかなく、垢にまみれ、乞食のような避難民の群れの中からヨボヨボの小さな老人が近寄ってきて「山里さんじゃありませんか」 と声をかける人がいます。くぼんだ目、よれよれの国民服、肩にフロシキ包みを袈裟懸けにしている老人がいました。
「あっ、志喜屋先生」。二中時代のこわい、懐かしい恩師の憔悴しきった姿がそこにあったのです。(「沖縄の証言」)
一方、古我地では比嘉善雄、比嘉秀平、新里清篤の3氏が久志村嘉陽に志喜屋先生を迎えに出発しようとした、その矢先に「志喜屋先生が隣村の仲尾に現われた」とのニューが届いたのです。
「取るのも取敢えず、仲尾まで迎えに行くと、先生は焼け残って村役場にしている瓦葺の民家の庭に天幕を張った休憩所で両手で身体を浮かすようにして座っておられた。栄養失調寸前で尻をつけて座ると骨が当たって痛いから、両手で支えているとのことであった。
わたしが“先生”と呼ぶと先生は振り返って、しばらくは声も無く涙をこぼしておられたが、やがて”無事だったか“とだけ言われ、わたしも比嘉秀平氏も”ご無事でしたか“とだけで、あとは言葉にならず涙をこぼしていた。
先 生は膝までしかない芭蕉(ばさ)布(ー)の着物を着、木の枝に1升ぐらいの米包をくくりつけたものを傍においておられた。比嘉秀平氏と二人、介添えしてご 案内したが、わずか三キロほどの道のりを行くのに何度か途中で休まねばならなかった。歩いているうちに次第に無事が実感として確かめられて、心から喜びが 湧いてきた」(「わたしの戦後秘話」)と語っています。

*沖縄諮詢会(しじゅんかい)の設立*

「沖縄戦が一段落つき、日本本土攻撃の準備に取り掛かった米軍にとって、沖縄人の管理に貴重な兵力を割くのは得策ではなく、沖縄人の管理は沖縄人に任せる方針」を実施に移すことを考えていました。諮問機関としての「沖縄諮詢会」の設立であります。

「8月15日の朝、田井等の憲兵隊隊長カーストン少佐に呼ばれて、志喜屋孝信先生とともに司令部に行った。そこには又吉安康和、仲宗根源和、比嘉永元、仲村兼信の各氏が集まっていた。
カー ストン少佐は、集まった六人に“これから皆さんを石川市に案内する。そこではこれからの沖縄の政治を任せるガバナー(知事)を選ぶことになるであろう。米 軍としては、これまでいろいろな面から調査した結果、志喜屋孝信氏を知事に選んで欲しいと期待している。ここから行く皆さんは、一致して志喜屋氏を推薦し てもらいたい”と挨拶した」のです。(「わたしの戦後秘話」)

米軍の丸本中尉の調査をもとに各地区から選ばれた120名余の代表が8月15日、東恩納の軍政府に近い美里村石川に集まりました。諮詢会設立のための会議を開き、諮詢会の委員長と何名かの委員を選出するための集まりです。

会議の冒頭に軍政府政治部長のモードック中佐から「沖縄のこれからの行政を
進 めていく上で、沖縄の住民の要求に沿うようにしてやって行きたい。そのために沖縄のことをよく知っている人々の意見を聞きたいので、諮問機関を作りたい。 諮問機関は、その長をして統治させるようにする」との発言があり、さらに、「諮詢委員には“イエスマン”は要らない“米国人のご機嫌取りをして個人的利益 を図ろうとする者”などは当方で拒絶する」という主旨の発言が続いた。集まった各地区の代表者たちは強い感動を覚えたと言います。
奇しくも会議当日の8月15日は日本がポツダム宣言を受託した日でした。
その日の会議で決めたのは、諮詢委員を15名とすること、その15名を選出するために24名の候補者を推薦(リストアップ)すること、でした。
各地区代表は24名の候補者名簿を持ち帰り、民意を打診した上で8月20日に再び石川に集まり、120名余の地区代表が24名の候補者の中から15名連記で投票を行い、志喜屋氏を筆頭に15名の諮詢委員を選出しました。
選出された15名の委員で「委員長」を互選し、棄権一票を除き満場一致で志喜屋孝信氏を「沖縄諮詢会委員長」に選出したのです。丸本中尉の証言によれば、棄権した一票は志喜屋氏本人のものだったとのことです。
諮 詢会発足早々、政治部長のモードック中佐が諮詢会を訪れ「これまで軍で処理していた業務を漸次縮小し、民間に移していきたい。沖縄人の誠意と能力の高さが 分かったからだ。沖縄人に一任する時期は早くなると思う。食糧は従来どおり軍で用意するが、分配は沖縄人に一任する」(「沖縄民政府」嘉陽安春著)との軍 政府の方針を伝えました。