[1]迫り来る戦争の足音

*“ペンと剣”の校章に憧れて*

沖縄県立第二中学校の最後の5年生となる第31期生が入学した昭和15年は紀元2600年の記念行事で全国が沸き返っていた。

感激と希望を胸に県下の秀才校“二中”の校門をくぐったのも束の間、翌昭和16年12月8日の真珠湾攻撃を機に日本は太平洋戦争へと突入、時代は次第に戦時色の強いものとなって行った。

校章と共に瞳れだった二中の制服(夏は白、冬は紺の詰襟、海軍式のスマートな脚絆に学帽)は、この年から国防色と呼ばれるスフ製(人造絹糸)のカーキー色 に変わり、さらに翌年には戦闘帽に巻脚絆と言う典型的な戦時下の陸軍式制服になった。残念ながら、スマートな制服を着ることは出来なかったが、入学できた 喜びはこれに勝るものだった。

昭和16年、17年までの学園生活は文字通り活気に満ちた楽しいものだった。

昭和18 年秋の或る目、「あの旗を撃て」という戦意高揚の映画を1年生(第34期)全員で鑑賞中に突然、学校に戻れとの命令、急ぎ学校に戻ると「各教室の机や椅子 を校庭に搬出せよ」とのこと。南方へ移動中の軍隊の輸送船団が敵潜水艦に撃沈され、救助された、ずぶ濡れの兵隊を一時校舎に収容するためだった。

この事件後、学校への出入りは規制され、授業は勤労動員の合間を縫って近くの楚辺国民学校を借りての2部授業となった。この時期になると、時代はますます 緊迫の度合いを増し、学校当局の進学指導も陸軍士官学校、海軍兵学校、甲種飛行予科練習生、陸軍特別幹部候補生などに重点が置かれ、生徒は軍関係の学校へ 進学する者が多くなった。

昭和19年6月初旬から8月にかけて沖縄守備軍の第三十二軍とその麾下の全軍、約70,000人強の兵隊が次々と那覇港へ上陸した。

大部隊の来島は二中の校舎も兵舎として提供されることとなる。この頃から飛行場や掩体壕(えんたいこう)の構築、高射砲陣地構築、那覇港での軍需品陸揚作業など、連日、勤労動員に駆り出され、授業が行われることは殆ど無かった。

*中学生にも戦闘要員の要請*

昭和19年10月10日、午前6時30分、第1波爆撃から第5波の爆撃まで、延べ500機の敵艦上攻撃機による延々9時間に亙る空爆で那覇市のほぼ9割が焼き尽くされ、母校 県立第二中学校も炎上した。いわゆる10,10空襲である。

母校炎上の状況を当時4年生(32期)の泉利昌氏は次のように述懐している。

「・・・・・・忘れもしない午後5時、艦載機の行動可能な時間範囲から言って最後の攻撃ではなかったか。グラマン機の一群が二中の校舎めがけて襲い掛かってきた。
・・・・・・壕の生徒仲間数名と飛び出して消火に当たったがそれどころではなかった。敵機は数を増やし、旋回を繰り返 しながら、全校舎に焼夷弾の雨を降らせている。
・・・・・・消火作業を放棄、防空壕めがけて走った。全校舎が炎と煙に包まれ、次々燃え落ちていく。仲間と連れ立って校外へ退避したが、校門で振り返ったら武道場はまだ宙天に炎を上げている。思わず気を付けの姿勢で挙手の礼をした。
・・・・・・全校舎がもえ落ちるまで、わずか2~30分も掛からなかった。」(「城岳同窓会80年」より)

10月10目の大空襲は米機動部隊が沖縄攻略に向けて進撃を開始する前触れであった。

昭和19年12月、沖縄守備軍司令部は「県内の中学生、女学生を学徒隊として戦力化すること」について県当局と協議を始めた。間近に迫った米軍の上陸に備えて防衛力を増強するためである。
当初、県の学務当局は学徒動員には強力に反対したが軍命に逆らうことは出来なかった。

男子中学校の上級生(5年生、4年生)は各学校の配属将校の指揮の下に「鉄血勤皇隊」を編成し、直撲戦闘員としての訓練を受けさせる、下級生(3年生、2 年生)は「通信隊」要員として通信技術の訓練を実施する、女学生は看護隊として各部隊に配属すると言うものだった。しかし、学徒を兵隊にする法的根拠がな い。そこで 軍は“志願制”にすることで問題の解決を図ったのである。