*中農併置で爆発した二中生の怒り

あれほど全県下の注目を集めた「中学校整理案」でしたが大きな波乱もなく県議会を通過し、翌1916年(大正5年)4月より 「中農併置」が実現することになりました。

校長には沖縄県の事情に疎い山梨県立都留中学校長寺尾熊三が沖縄県立農学校長兼第二中学校長として赴任して来ました。
新学期を迎え、いざ中農併置がスタートすると二中にとって耐え難い事態が続発します。同一敷地内に二つの学校が存在するという単純なものではありませんでした。

創立25周年記念誌は「かくて二中は廃校の悲運を免れたが昔日の面影なく、農学校に庇を貸して母屋をとられた形となり、専任の校長を置かれずして農学校よ り兼務の校長を戴き、その他職員も多数農学校より兼務せしため授業意の如くならず、二中の職員生徒は孤城落日の感に打たれた」と憤懣やる方ない思いを吐露 しています。
削減された二中の教諭の替わりを農学校教諭が兼務したのですが、地歴の先生が国漢を教え、図画の先生が地理を受持つという酷いものだったと言います。

当時3年生だった松田昌嘉氏(5期)は創立55周年記念誌に「広かったグラウンドは見る間に開墾され農場に変わった。歯ぎしりした私たちは夜中に寄宿舎を 抜け出て開墾したこの畑を靴で散々踏みならし、石で固めて元のグラウンドにした。翌日は農学校側が固めたグラウンドをまた掘り返して農場にした。開墾と地 ならしのシーソーゲームだった」と述懐しています。

中学校と農学校とでは教育目的、学科、訓練の仕方など異質な面が多く、些細なことから感情的もつれが起きることは予想されたことで、両校生徒の間には、すでに一触即発の危機が迫っていました。

果たせるかな、中農併置から1ヶ月後の1916年(大正5年)5月12日、二中の全校生徒が農学校の寄宿舎を襲撃するという事件が勃発します。

*ストライキの勃発とその背景

襲撃の直接の原因は特定できませんが、中農併置以来の農校生に対する憤懣が蓄積されていたこと、加えて、これまで寺尾校長に対し舎監を通じて4月上旬と5 月5日の2度に亘り要望書を提出、その改善を請願したにも拘らず、その都度、体よくあしらわれたことが二中生にとって、校長は権力側であり、最早当てには 出来ない、斯くなる上は実力行使に訴えるほか問題解決の道は無いとの思いに追い込まれていたのです。

4月上旬の校長に対する最初の要望は、農校生が「煙草を吸う」「俗歌を唄う」「土足で寮に入る」「下着姿で食堂にくる」など、ほとんどが規律に関するものでした。
これに対する校長の答えは「諸君の満足行く解決はすぐには無理だが、漸次農校生の習慣及び風紀を正すように極力意を尽くすから、事を荒立てないでくれ」と言うものでした。

問題改善に具体的な動きの無いのを見た二中生の要望は次第に問題の根幹にふれるもの、つまり「中農分離」の方向に傾斜していきます。そして5月5日、再び校長に要望書を突きっけます。
その要望事項は
①農校生徒と炊事を別にする、同時に寮の会計も別々にする
②二中生の寮室を広くする、そのために農具置き場に使用している寮室を二中生に開放する
③農学校兼務の教諭を廃し、専任教諭を当てる、と言うものです。

①の背景には、中農併置以前は寮の残飯を売却して月約7円の収入があり、その積立金が80円余になっていたのが、農学校と炊事を共同にしてからは、その残 飯収入がなくなったのです。それは農校生が二中生より大食漢で残飯が出なくなったからで、同額の食費を払っている二中生にとっては大きな不満でした。

②の寮の部屋を広くすること、とは、これまで寮の10畳の部屋32室を二中が独占していましたが、農学校との併置でその中の20室(内4室が農具置場、1 室は舎監室)を農学校に明け渡したため、二中生が使用できるのは12室に減り、しかも1室当たりの人数は農学校の3~4人に対し二中は5人、それでは狭す ぎで勉強が出来ない故、農具置場に使用している部屋を返してもらいたい、と言うものです。

*騒乱を誘発した校長の対応

これに対する寺尾校長の答えは「農具室の件は追々適当の方法を講ずべきも、その他の希望条件に就いては今の所容認あたする能わず」(琉球新報、5月18日)と冷たいものでした。

校長の態度に業を煮やした寮生は9名の室長を代表に選び「中農併置」についての校長の意見を直接糺さんものと校長室を訪れたのが暴動の起きた5月12日のことでした。

丁度そこに、二中生に不穏な動きがあるとの情執を得て県学務課の渡辺視学官が駆けつけ、校長と二人で生徒代表の説得にかかりますが、彼等は聞き入れません。校長の返事次第では退学をも辞さずと全二中生が校庭で待機しているからです。

校長は「併置の是非にかかわる問題は二校の根本の間題であるから、今騒ぐのは徒労である。今しばらく時機を待て」と明確な回答をさけ、引き伸ばしにかかります。
渡辺視学官は「校長も既に適当の方法を講じていると言っているのだから、生徒である君達は大人しく引下るのが筋ではないか」との高圧的態度に生徒が激昂し全く収拾がっきません。

延々と続く校長室の談判に我慢できず、校庭で待機していた二中生が校長室の9名の代表を引き上げさせ、農学校の寄宿舎を襲撃、硝子窓や机などを壊し、一部の農校生を襲うという暴挙に出ます。
暴動が収まったのは渡辺視学官が「中農併置問題に関する二中生の意見(分離論)を新任の鈴木知事に伝える」ことを約束した午後11時過ぎのことでした。
これが所謂、二中ストライキ事件、直接の原因でした。

*全寮生、荷物を纏めて帰郷す

5月15日の新報は「二中騒擾事件」と題する社説で二中生の心情を的確に言い当てています。
「尤 も二中生より見れば、この学校は自家の創設したる学校なり、校内の一木一草にも愛着の念を注ぎ、職員生徒こころを合わせて外観内容の完成を期したるなら ん。然かも昨秋に至りて突然一大動揺を余儀なくせられ、爾来、校長去り、同輩減じ、校舎と寄宿舎は農学校に割かれ、主客殆ど転倒の状を呈するに至りては青 年の活気尋常の忍耐を以て忍ぶ能はざるものあらん」(5月15日)と。

二中生の暴発に対し一部には批判の声も上がりますが、これに対し ても新報は5月16日の社説で「種々の点において或は農学校が主にして二中がこれに寄生せる観なきか、理屈を言えば如何様にも申訳は立つべけれども生徒の 脳底に潜める不満の感情は到底百の理屈、千の条理を以てするも之を緩和するの道はなかるべし」と、県当局の重農軽中の政策が紛争の最大原因であることを指 摘しています。

就任間もない寺尾校長は事の成り行きに動転し、父兄会に対して生徒の説得を要請します。父兄会は収拾策として
①「専任教諭」を配置し満足できる教育をする
②臨時の県議会の開催を促し「中農分離」についての検討を要請する
③当事件に関する生徒の処分は行わない
④父兄は、登校ずるよう生徒を説得する
等を決め、①~③については校長に善処するよう要請し、父兄は生徒の説得を約束しました。
騒乱の発生と同時に両校生徒は荷物をまとめて寄宿舎を引き上げたため、学校は自然休校の形に襟っていたからです。

*突如罷免された大味知事

一部の父兄はこれだけでは治まらず更に以下のような質問状を校長に突きつけます。

①大味知事が3月下旬、落第の可能性のある生徒に対し「農学校への転校を受け入れれば及第証明を与える」とし、その勧誘を青木教頭にさせたというのは事実か。
②寺尾校長が沖縄赴任の途中、文部省で見た「沖縄県が提出した設計図と現実とが異なっている」と言うのは事実か。(提出書類には同一校舎、同一寄宿舎は使用しないと明記していたと言う)。

何故、大味知事はこのような無謀とも言える「中農併置」を実行したのか判然としませんが、前掲の『沖縄県攻五十年』は「当時誇大妄想狂といわれた大味知事の、県の実情を無視した独断的の植民地政策を夢想した結果たるに過ぎない」と厳しく批判しています。

大味知事は中農併置がスタートした直後の大正5年4月28日突如、罷免されます。彼の無鉄砲ぶりがよほど目に余る
ものだったからだと言われています。

二中生の騒乱は大味知事更迭直後に起きました。問題の種をまいた張本人は既に去り、事情を知らない新しい知事の赴任がこの間題を一層、混乱させたのです。

*勢い増す中農分離論とストの終息

ストライキを契機に世上では「中農分離諭」が俄かに勢いを増すことになります。
新 報も5月15日のコラム欄で中農問題を取り上げ「当局はどう始末をつけるか。鈴木知事新任早々の難題で誠にお気の毒だが、仕方ない。しかし、これが始末は 極めて簡単なもので中農を分離するか、どちらか一方を潰すか、の二つに一つだ。ところが、今の情勢上、中学を減ずると言うのは決して許さない。そうかと 言って一つしかない農学校も廃する訳にいかないとあれば、残るは分離間題だが、中学をそのままにして、農学校を移すか、農学校を嘉手納において中学を移す か。県の経済上より言えば農学校を移すのが至当だし、中学志望者の状況より考えれば中学校を移すのが利益だ」と問題の要点を的確に指摘しています。

これまで高良前校長や父兄会が訴え続けてきた「分離」こそが、紛糾した中農問題を解決する鍵であるという認識が一般にも浸透していきます。

学校(寺尾校長)と県当局は終始二中生に厳しい態度で臨みます。5月20日学校と県当局が出した収拾案は
①二中の全生徒を5日間の停学処分とし5月25日より授業を開始する
②二中生は農校生に謝罪する
③中農分離間題は父兄会が県当局と県会に働きかける、従って、この間題は父兄に任せて生徒は学業に専念せよ、と言うものです。

二中生はその条件を受け入れ5月12日以降休校中だった学校は農学校が20日より、二中は5日間停学のため25日より授業が再開されることになりました。