米軍が日本軍との戦闘中から、その行方を探し求めた男。敗戦の混乱期、茫然自失の県民の求心力となって、郷土再建に取組んだ二中中興の祖・第四代校長・ 志喜屋孝信。本稿は、未だ戦闘の続く中、教え子達が繰り広げた志喜屋先生救出のドラマであり、沖縄民政府「初代知事」誕生までの物語です。

*艦砲に追われて*
昭和19年10月10日の那覇大空襲を機に中南部の人々が一斉に北部ヤンバルへの避難を始めました。更に昭和20年4月1日、米軍が嘉手納海岸に上陸を開始するや、住民の動揺は極限に達し、熾烈な艦砲や空爆の中を数万の住民が羽地、国頭の山岳地帯を目指して殺到しました。

特 に羽地村源河山の「オーシッタイ(大湿帯)部落」は戸数わずか10戸ほどの山間の集落ですが東、久志、羽地の三村へ続く道路の交差点であり、ヤンバル山中 への避難ルートとしての要衝の地であるため猛爆の中を逃げてきた避難民や友軍の脱走兵の群れで修羅場のごとき様相を呈していました。

この 避難民の中に開南中学の志喜屋孝信校長(元二中校長)がいました。先生は昭和20年3月23日、当時一高女生のお嬢さんを避難先の郷里具志川に送り届けた 上で、開南中学の学徒隊に合流する予定でしたが、米軍の激しい爆撃にあい南下することが出来ず、急遽、ヤンバルの「ご真影奉護隊」(注)に合流すべく羽地 山中の「オーシッタイ部落」を目指したのです。

志喜屋先生がオーシッタイにたどり着いた日の様子を奉護隊副隊長の新里清篤氏(二中11 期)は「この混乱の人ごみの中に、ほこりと汗にまみれて老躯を運んで来られた方に開南中学校長志喜屋孝信先生がおられた。・・・先生は沖縄戦当初、開南中 学の健児隊に加わるため郷里の具志川村から南部へ向けて進まれたが、幾度もいく度も艦砲に見舞われ、やむなく病床の夫人を残して、羽地山中のご真影奉護所 にたどり着かれたのであった。空襲や艦砲の合間をくぐり、山また山を越えてたどり着かれた先生は、憔悴その極に達しておられた。」と著書「沖縄教育の灯」 で語っています。

(注) 「ご真影」とは天皇陛下、皇后陛下の写真のことで、四大節といわれた新年、紀元節(現建国記念日)、天長節(現 昭和の日)、明治節(現文化の日)の祝日には、全校生徒を対象に、ご真影の拝賀式が行われました。また、各学校には鉄筋コンクリートの神殿づくりのご真影 を収める「奉安殿」があり、登下校の際はその都度、拝礼を行うよう指導されていました。沖縄全島の学校にあるご真影を米軍の攻撃から守るために羽地村源河 山に設置された施設を「奉護所」と言い、そのご真影を守る人々を「奉護隊」と称したのです。

*ご真影と奉護隊*

当時、瀬 底国民学校長であった新里清篤氏は2月末のある日、県教学課の主席視学官に呼ばれ「新里君、戦局は君の知ってる通りだ、沖縄は玉砕を覚悟せねばならない が、教育行政の責任者として、今、一番頭を痛めていることは全島各学校のご真影のことだ、米軍上陸の最悪事態に立ち至ったら、ご真影の奉護もさることなが ら、この奉護のため幾十名の校長教職員が命を失うかも知れない。県として羽地村源河山にご真影奉護所を特設して、そこに全島のご真影を集め、奉護の万全を 期すことにしている。」(「沖縄教育の灯」)と「ご真影」を護る「奉護隊」編成の経緯について説明を受けたあと、奉護隊副隊長就任を要請されたのです。昭 和20年2月末のことでした。

前年8月の対馬丸事件で母親、夫人、3児を失っていた新里校長は「どうせ家族も一人残らず死んでしまった係累の無いひとり身だ。全教職員に代わって奉護の重任につくことも戦時下の男の本懐ではないか」と応諾したと言います。
2月末に編成された奉護隊の全員が源河山のオーシッタイの県事務所に勢ぞろいしたのは3月20日頃でした。隊員は渡嘉敷真睦隊長(那覇国民学校長)以下9名。他に県立第三中の学徒隊員12名が補助員として配属されました。

全県下のご真影を18箱の桐の箱に納め、それを2箱ずつくくり、九人で背負って避難壕に運び、日暮れを待って事務所へ持ち帰るという毎日です。

4月に入り志喜屋先生が奉護隊に合流する頃になると戦況は日を追って悪化の一途を辿り、オーシッタイの近くにも米軍の攻撃の手が伸びてきたので奉護所も豪雨のなかを谷ひとつ隔てた更に山奥の東村有銘に移動することになりました。

奉 護隊の最大の問題は20余名の食糧の確保です。食糧は日ごとに窮乏し、野草を口にするのも日常茶飯のことでした。その頃、志喜屋先生は下痢を理由に箸をと らないことが、度々あったので、隊員が心配し調べたところ、食糧を少しでも節約したいと言うお気持ちからの“いつわりの下痢”である事が判明したとのこ と。これほど食糧事情は逼迫していました。
「食糧調達で久志の村々を回る度に、山道で、行き倒れの幾人もの避難民の死体に遭遇した。食うに食なく野辺に倒れ、葬る人も無いまま、路傍に朽ちていく同胞の悲しい最後の姿に、ただ合掌するより道はなかった」(「沖縄教育の灯」)と言います。

敵の攻撃から逃れ、食糧難と闘いながら、かつ絶対の隠密を要請される中、奉護隊はヤンバル山中を4ヶ月の間に3度も避難場所を移動せざるを得ませんでした。

6 月28日、新里氏が沖縄新報社の幹部(上地一史氏)から「牛島軍司令官と長参謀長、自決す」の情報を入手、早速緊急会議を開き、ご真影の焼却を決定しま す。その日の様子を「鉄の暴風」(沖縄タイムス社刊)は「30日、遂に最後の断を取ることに決定した。壕内に壇を設け、全島各離島の、各学校のご真影をそ の上に奉置し、型の如く式を行い、“君が代”が歌われ、委員の1人が、最初の一枚に点火した」と記しています。さらに「その頃の奉護隊員はどの顔も蓬髪 (ほうはつ)長髯(ちょうげん)、まるで山賊のようであった」とも。
ご真影焼却後、奉護隊は即日解散し、各自自由行動をとることにしました。

*飢餓に耐えかねて*

日 本軍は最精鋭部隊の第九師団を台湾に抽出されたため北部地区の防衛に十分なる兵力を裂くことが出来ず、独立混成第四十四旅団の一部である第二歩兵隊(隊長 宇土武彦大佐)を「国頭支隊」とし、国頭方面の防衛に当たらせたのです。しかも、二個大隊編成のうち一個大隊を飛行場のある伊江島に配備したため、本部半 島の守備は当初から八重岳中心の地区に縮小せざるを得ませんでした。

一方、猛爆に追われ、わずかばかりの食糧と衣服を携えて中・南部から逃れてきた避難民は、食糧を求めてヤンバル山中を徘徊するよりほかありませんでした。

「山 の中の蘇鉄は、片っ端から切り倒されて食糧になった。日を追って蘇鉄も少なくなり、木の香も新しい墓標のみが増えていった。挙句の果ては盗難が頻々として 起こり、争いが絶えず、兵隊も強盗に変わり、避難小屋を襲ったりした」(山川泰邦著「秘録沖縄戦記」)と言う悲惨な状態でした。
その頃になると飢え死にするよりはと食を求めて山を降り、米軍に撃たれるものや捕らえられる者が続出しました。
昭和20年4月15日、国頭支隊の主力が八重岳を放棄し撤退したあとは本部半島の戦闘は実質的に終焉を迎えます。
4月下旬になると、米軍の投降勧告は積極的となり、二世兵士を伴った宣撫(せんぶ)班(はん)(注)が山中の避難民を数百人単位で駆り集め、収容所に保護する動きが本格化しました。

(注)宣撫とは“占領地において占領軍が、その意思・方針を伝えて人心を安定させること”を言います。

「鬼畜米英」、「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられた住民は投降することを潔しとせず、米兵に引かれて山を降りる途中、逃亡する者もいました。しかし、山に逃げ帰ったものの空腹に耐えかね、先に収容された避難民のあとを追って山を降りる人々があとを絶ちませんでした。

飢餓に耐えかね米軍に投降、保護された避難民の中に山里景春氏(当時国民学校教諭、二中15期)もいました。沖縄タイムス社編「沖縄の証言」から山里氏の投降の経緯を辿って見ましょう。

20年4月、彼の一家はヤンバル山中で餓死目前の危機に直面していました。山中生活もすでに4ヶ月、食料は底をつき、アバラ骨は浮き出し、足の肉も削げ落ちて、関節がやたら大きく見えるという栄養失調状態でした。
「6 月末、妻、妹、母の三人が食糧を求め名護近くまで足を伸ばして、米軍の捕虜になってしまい、一度に女手を失った。山里氏は2歳の長男と5歳の長女を抱え途 方にくれた。捕虜になって3日目に妻が1人で山に帰ってきた。しかも、大きな缶詰と空き缶一杯のをお土産にして。妻の話によると、羽地村田井等の避難民収 容所で、彼女と同様、山に子供を残した母親十数人が、米軍司令官に懸命に訴えた。“乳飲み子が山にいるんです。オッパイをあげないと死んでしまう”と。司 令官は母親たちを並ばせ、乳房を目で確かめて“乳房の張っているものは母親と認める。山に登ってよろしい。ただし、必ず家族を連れ帰るように”と厳命し た」と言います。

更に妻は「田井等には、大勢の避難民が集まっている。米軍は沖縄人を殺すどころか、食料を与えて保護している。戦争はアメリカの勝利に終わったようですよ」と、必死に「投降」を勧めました。
「お前はアメリカにそそのかされたのだろうが、俺は行かない。それに、そんなことが友軍にでも知れてみろ、たちどころに銃殺だ」と頑強に反対する山里氏。だが飢餓には勝てず、遂に説得に応じて投降したのでした。