初代校長高良隣徳先生とストライキ事件
~母校百年の礎を築いた人々~

二中廃校の危機に際しては職を賭して当局に立ち向かい、校長を辞した後は県会議員となって二中の那覇移転実現に文字通り命を賭けた初代校長・高良隣徳先 生。“教育”に沖縄の未来を託し、その為に渾身の努力を惜しまなかった先生の足跡を辿り、その偉大なる功績に対する感謝と敬慕の証として、この拙文を捧げ ます。

*本校は新沖縄の記念物である

沖縄県立第二中学校の前身である「沖縄県立中学校・分校」が首里城北殿で狐々の声を上げたのは今から100年前の1910年(明治43年)のことです。

前年の明治42年は沖縄県に初めて他府県並みの県制が施行された年であり、その記念すべき第一回通常県議会(1909年11月)に提出された「中学校分校設置計画」に基づいて設立されたのが「沖縄県立中学校・分校」であります。

当時は名護に県立農学校、首里に県立中学校があったので、県会は当初から明治44年度には中頭郡内に本格的な校舎を建築し、首里城内に開校した「沖縄中学分校」を首里城内から中頭郡に移転するよう建議していました。

文部省告示により明治44年1月には県立中学校を沖縄県立第一中学校と改称し、同時に分校を「沖縄県立第二中学校」と命名、初代校長には分校長の高良隣徳 先生が任命されました。高良校長は1872年(明治5年)、小禄村に生まれ沖縄師範、東京高等師範(現筑波大)卒業、滋賀県尋常師範学校教諭等を経て 1899年(明治32年)沖縄県立中学校に転任されました。

県立第二中学校長になった高良先生は生徒に対して「本校は沖縄県に自治制が布かれた新沖縄の記念物である。故に本校の生徒は将来新沖縄の代表者を以て任ずる覚悟がなくてはならぬ、その責任は重かつ大なり」(『沖縄県政五十年』太田朝敷著)と常に訓戒したといいます。

1910(明治43)年3月に実施された第1回の入学試験は100名の募集に対し志願者557名という順風満帆の船出でした。

新しい中学校の敷地が中頭郡内ということは県会が当初で決定していたことでもあり、問題はありませんでしたが具体的な位置となると、首里・那覇から通学可能な浦添村の安謝橋付近というのが大方の教育関係者の予想でした。
しかし時間の経過とともに第二中学校は中頭郡の中央部にとの声が高まります。
驚いた高良校長は県当局や各地域の有力者に対し条理を尽くして安謝橋付近の正当性を訴えまずが、選定の段階になると政治的な駆け引きが介入し北谷村嘉手納に決定してしまいました。

この決定を聴くや、高良校長はすぐに反対運動に立ち上がります。辞表を懐に県首脳に対し、嘉手納の不適なることを執拗に訴え続けます。しかし、決定は覆ることなく、1912年(明治45年)4月、二中は首里城内の仮校舎から新築なった嘉手納に移転することになりました。

*打ち寄せる悲運と高良校長の辞職

嘉手納への移転は二中にとって決定的な打撃となり、悲運が次々と襲い掛かります。
その第1は、応募者の激減です。557名であった1年目の受験生が2年目には418名、3年目は257名となり、4年目の1913年(大正2年)嘉手納での最初の受験者はたったの105名となったのです。

第2は、中途退学者が急増したことです。1915年(大正4年)の第1回卒業生は入学時の100名が30人に減り、2期生は100人が13人、3期生は97人が28人、4期生は84人が19人という惨憺たる状況を呈します。

高良校長の危惧した事態が不幸にして的中したのです。
校長は受験生勧誘のために教職員の先頭に立って全県下を駆けずり回らなければなりませんでした。
厳しい状況が続く中で、激務と心労のため出張先の国頭で遂に病に倒れます。医師からは厳しい診断が下されました。

遠い国頭郡本部の病床から高良校長は生徒に対し「予は病躯を押して常娥平(※)を越え今本部にいる。発熱甚だしく、或は再び諸君に会えぬかも知れぬ。諸子は予の衷情を察し、奮励努力校名を辱しむる笏れ」(創立25周年記念誌)と悲痛なる電報を発信しています。

(※)常娥平(じょうがひら)とは名護から本部にいたる街道(ほぼ現在の県道244号線、常娥道、門川道とも言う)にある嶮しい坂道で旅人を悩ました険路として有名、大正中期までは名護・本部間の主要道路だったといわれています。(本部町史)

敷地の選定など県当局の教育行政に対する強い不信と失望、更には襲い来る病への不安、心身ともに疲労困憊の高良校長は大正4年6月とうとう依願退職します。後任は大木俊九郎教諭が校長事務取り扱に任命されました。

*廃校問題に高良前校長立ち上がる

高良校長退職2ヵ月後の1915年(大正4年)8月、突如、県当局に「中等学校整理案」なる計画があり、その中身は「二中の廃校と農学校の整理」との噂がひろがります。

二中廃校の理由と整理の中身は
(1)二中は中途退学者が多く発展の見込みがない
(2)県財政救済の一環として二中を廃校処分とする
(3)郡立(組合立)の中頭農学校と島尻農学校を廃止し、国頭(名護)の県立農学校を嘉手納の二中跡に移す
(4)二中を廃校とする代りに一中を拡充する、等々でありました。

激昂した高良前校長は憤然として「廃校阻止」運動を展開します。「二中不可廃諭」なる小冊子を作成して県当局の暴挙を批判し、その事を世論に訴えます。

その諭点は
(1)各県の入口に対する中学校の数を全国平均で見ると173,000余人に1校の比率であるが、わが県は267,000人に1校の割合、仮に3校にしても178,000余人で、尚全国平均を下回っている。中学校はまだ不足であって廃止などもってのほかである。
(2)沖縄県の社会は上流と下流に二極分化しているのが現状で、特に郡部の教育水準は極端に低い状態にある。県の改革、発展のためには中流階層の構築が急務である。各字(村)に数名の中学卒業生が必要である。そのためにも第二中学校の廃止は到底是認出来ない。

そして、小冊子は「教育は本県の未来である。我々は現在にその苦しい思いをして、望み多き未来を有したいのである」という言葉で結ばれています。

高良前校長の勇気ある行動が呼び水になり連日生徒大会、父兄大会、有志大会が開かれます。一方、新聞も味方し、反対の論陣を展開します。

琉球新報(以下、新報と表記)は、「前知事日比重明氏が平身低頭して文部大臣に二中設立を乞い、許可後2~3年して又当局者がこれを破壊するとは何の顔あって後年二中設立を乞う事が出来ようか」(大正4年9月2日)と当局者の再考を促しています。

高良前校長は各地の反対集会に馳せ参じて、「二中廃止不可」の諭陣を張ります。9月5日の中頭郡民大会では300余名の参加者を前に2時間余にわたって熱弁を揮います。

その様子を新聞は「二中前校長高良隣徳氏は先に印刷せし二中不可廃論を敷衍し二中廃止の不可を熱叫し、更に該問題に対する県会議員の大多数は廃止に反対の 意向にて吾人に切実なる同情を寄せ居れば我々の運動は必勝なりと報告して拍手を浴びせられ、尚、氏は論鋒を転じて大味知事の政策を攻撃し、知事は時世後れ の政治家にして且つ本県を全く植民地扱いせんとしつつあり」(新報、9月7日)と先生の獅子奮迅の活躍をつぶさに伝えています。

*廃止諭消えて併置論浮上す

圧倒的な世諭の反対に会い、県当局は二中の廃校案は引っ込めますが、一転して“二中の縮小と中農併置”を「中学校整理案」に盛り込み、1915年(大正4年)9月11日の県議会に上程しました。

その内容は
(1)二中の定員400名を250名に減じ、代わりに一中の定員600名を800名に増加する
(2)農学校については島尻、中頭の組合立(群立)を廃止して県立1校にまとめる。そして定員200名を300名に増加し、名護から嘉手納の二中の構内に移す、と言うもので、いわゆる「中農併置案」の登場でした。

廃校の危機は脱したものの、「生徒の定員及び教諭の削減」その上「中農併置」という二中にとって屈辱的なこの「整理案」は到底受入れ難いものでした。

二中間題が討議される県議会の当日(9月20日)、高良前校長は定刻の2時間も前から傍聴席に陣取り、議会の成り行きを注視していました。
しかし、「中学校整理案」は紛糾するどころか、ほとんど議諭らしい議諭もなく当局原案のまま通過してしまいます。

当局案に対する各郡の議員の意見は以下の通りでした。
島尻都は、二中を那覇に移転し、農学校を嘉手納に移した後、時機を見て国頭に中学の分校を設立する、という“中農分離説”。
中頭郡は農学校を名護から嘉手納に移し、二中もそのまま嘉手納に残すという“中農併置説”。
一方、どうしても中学校を誘致したい国頭郡は当初、島尻案に賛同する構えでしたが、それを見た中頭郡が急遽「早い時期に国頭に中学の分校を設立する」という条項を付加した為、国頭が島尻案から中頭案に乗り換えてしまいます。
蓋を開けてみると大味知事の個別切り崩しに会い、結局全会一致で可決されたのです。
二中の敷地が嘉手納に決定したとき同様、純粋に教育的見地からの議論はほとんどなされず、政治的駆引きと地域エゴが優先される結果となりました。